“ジャーナリズム”に対する二つのスタンス
ふたりの“ジャーナリスト”
先日、自分も参加したSXSW(サウスバイサウスウエスト)視察ツアーの事後報告会で、ふたりの“ジャーナリスト”とお話をさせていただく機会がありました。もしかしたらふたりとも「自分はジャーナリストじゃないよ」とおっしゃるかもしれませんが、ジャーナリストの定義を“メディアに関わり、報道用の記事や素材を提供する人”とするなら、自分から見ると二人は(尊敬を持って)ジャーナリストだと思います。ただ、とても興味深かったのは、SXSWに対する二人の見方が大きく違った、はっきりいうと真逆だったことです。お一方(以後、Aさんとします)は、ある放送局にお勤めの方で、彼は視察前、主にSXSWに「AR、VRなどの先にある新しい映像体験技術を見るために行く」とおっしゃっていました。帰国後、Aさんは「SXSWには新しい技術も、そして新しい発見も課題もなかった」「あそこで話されていた話は、わざわざ行かなくても日本でもわかるし、それで十分だった」という感想を述べられました。自分は1週間の視察を通して「今、世界が直面する『問い』と、それを解こうとするさまざまなアプローチ」を目の当たりにすることができてめちゃめちゃ楽しかったし、学びがあった(この辺りはこれからコラムで書いていきたいと思っています)と思っていたので、正直、Aさんの感想を聞いたときに驚きました。なるほど、そういう考え方もあったのか、と。それに対してもう一人のジャーナリスト(Bさん=このかたは、”ジャーナリスト”と言われることをより嫌がりそうですが)は全く違う、むしろ真逆の感想を述べられました。それはどんな考えかただったのでしょうか。
危険水域なので
と、先日感じた“ジャーナリズムに関する、ふたつのスタンス”について書こうと思ってたのですが、かなりニュアンスをきっちり書かないと伝わらない(誤解を生む)だろうなと思ったのに加え、何しろ今日はアルコールが入ってしまったので、その”ふたつのスタンス”と自分が感じた“違和感”について正しく伝える文章を書ける自信がないため、詳細なコラムは明日以降に書き直します。おやすみなさい。