
現在、大学院で哲学を研究しているQueのインターンが、「広告と哲学って意外と似てるな」と思った話をしてみます。結論から先にいうと、広告と哲学に共通しているのは「『身体』の重要性」だと思うのです。まず広告の話から始めましょう。
広告においては、「頭で考えた正しい情報」よりも、「身体的な心地よさ」が重視される傾向にあるように思います。身体的な心地よさとは、具体的には無意識に口に出したくなる、歌いたくなる、手にとっちゃうといったものです。
例えば、「どうする?GOする!」というキャッチコピー。頭で考えた正しい情報を過不足なく伝えようとすると「快適な移動手段がない。そんなときは、GOアプリでタクシーを呼びましょう」と、なるかもしれません。でも、快適な移動手段がなかったら、無意識に「どうする?」って言っちゃいますよね。
そこで、韻を踏んで「どうする?」に続けて言いたくなる「GOする!」という「身体的な心地よさ」を感じる言葉を配置すると、「どうする?GOする!」という強いキャッチコピーになります。
他にも、ビールなどのCMで活用されるシズルも同様に考えられます。「このビール喉越しがいいんですよ」と伝えるよりも、「シュワシュワの泡」「ゴクッと喉を鳴らす」「っぷはーと漏れ出る声」を表現する方が「喉越しよさそうだな、美味しそうだな」と伝わりますよね。「過不足ない情報」を論理的に伝えることに気を取られ、身体的な側面を軽視してしまうとコミュニケーションは弱くなってしまいます。
同じようなことが哲学にも言えるんです。近代までは精神(意識や魂)と身体が完全に分離されていました。いわゆる心身二元論です。さらに言うと、精神は身体よりも優位であると位置付けられていました。
例えば、幻覚など身体的な感覚は誤ることがあります。一方で「私は考えている」という事実だけは、どんなことがあっても誤りではない。だから、存在や道徳など、真理を追求するときは、人間に備わった精神や意識を起点にすべきである。これが、デカルトの「我思う故に我あり」を簡単に分解したものになります。
この考え方は、意外と今でも信じられています。身体的な感覚や欲望に従ってはいけない。「頭を使って考えてね」とか「論理的に書いてね」とか言いますよね。僕もよく言われています。
しかし、ニーチェあたりからこうした精神と身体の重要性の逆転が起こり始めます。身体の方が大事じゃないか?というわけです。
「身体はひとつの大きな理性だ。(中略)あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。」(『ツァラトゥストラはこう言った』(上)岩波文庫、1967年、54頁)
つまり、身体(大きな理性)があるからこそ、精神(小さな理性)を働かせることができる。だから、精神を起点にするのではなく、身体の感覚をより素直に受け止めて、そこから始めなければならない。考えるという行為も、身体がなければできませんから言われてみれば当たり前のことですね。
ただ、ニーチェ以前の哲学者たちは、このことに気づけませんでした。彼らは人間に備わった精神が「概念」をうまく活用することで、真理にいつか到達できると考えていたわけです。
情報過多になり、頭でっかちになってしまう現代だからこそ、身体が感じる物理的なリズムや感覚を大事にした方がいいのかもしれませんね。
現実において「真理」があるかはわかりませんが、頭で考えた過不足のない正しい情報を伝えようとしても、他人が理解してくれるとは限りません。口ずさんでしまう、リズムに乗ってしまうといった、気持ちよく「身体」に響く表現を磨いていくことで、コミュニケーションはより豊かに機能していくでしょう。
Queインターン4期生:亀田敦也